寛政7年(1795)、幕府は西洋暦法による改暦を企て、広く人材を求め、中国の西洋暦書『崇禎暦書』や『暦象考成』を研究していた大阪の麻田剛立(あさだごうりゅう 1734~99)門下の高橋至時(たかはしよしとき 1764~1804)と間重富(はざましげとみ 1756~1816)を起用しました。至時は、天文方にも任ぜられ、先任の天文方吉田秀升(よしだひでのり 1745~1802)、山路徳風(やまじよしつぐ 1761~1810)とともに改暦にあたり、『暦象考成後編』および『暦象考成上下編』に基づいて『暦法新書』を完成させました。『暦法新書』は、寛政9年(1797)改暦宣下、翌10年から施行されました。
『暦象考成後編』には日月の運行に対するケプラーの楕円軌道論があり、『暦法新書』に取り入れられています。至時は、その後もフランス人ラランドの天文書研究に没頭し、『ラランデ暦書管見』を残しました。
◆[伊勢度会暦]寛政10 ◆1797(寛政9年)
寛政の改暦後、最初の伊勢暦。前文に「順天審象定作新暦依例頒行四方遵用」とあり、新暦に基づいて作成したことを示している。